2022年01月31日

ヨット 狭水道 まとめ


  瀬戸内の狭水道(ヨット)



 

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  ヨットで通峡したことのある瀬戸内の狭水道



 「ヨットによる狭水道」をまとめました。 それについてはブログやHPに2013年以来の原稿があります。その中の狭水道に関するものを選びました。 そこには本船に関するものもありますが、ヨットにも関係していますので、それも取り上げます。

 40代まで本船の船乗りでしたので、本船では関門海峡と来島海峡には一段と注意を向けています。ここを通る本船船長には特別の水先手当が当時は支給されていました。

 また、残念なことに来島海峡では所属していた船会社の船舶が2隻が外国船と衝突して沈没しています。乗ったことのある船では怒和島水道で、これも外国船と衝突して沈没。 それでボ−スンが亡くなりました。 その事故は小生が休暇で下船した後の事故です。

 自身がの経験した本船の狭水道の航行で一番大変に思ったのは、ドイツ、デンマ−ク、スウエ−デン、ドイツからユカタン半島を1週間で回るコンテナ−フィ−ダ−サ−ビスに従事していた時でした。 その理由はいくつかあります。 そこの海域へは大西洋から暖かいメキシコ湾流が流れ込んでいるせいか、海の温度と大気の温度に違いがあり、春秋夏には霧が発生して視界が悪いこと。 また、当時は欧州と言えども日本程には航路標識設備が充実していないこと。 おまけに、冬には海が凍って砕氷船のサ−ビスを利用する時があることです。

  そこの一番の問題は、この海域は瀬戸内のように島が多く狭水道が多かったことです。 そこには思わぬ潮流が有り、流されて船位を求めると予想外の位置にいる時がよくあった。 船位を求める間隔を短くすることでその偏位に対処した。 これらのことで船乗り人生で狭水道航行に一番苦労したスカンジナビア航路であったと思う。

 話がそれました。 ヨットの狭水道のことでした。  初めてクル−ザ−を買い、処女航海での母港へ廻航の時です。 まだ着岸作業にに自信がないのでそれを避けて、夜はアンカ−を打ち、停泊し睡眠した。 若さにまかせて、毎日1kgの減量を余儀なくされた我武者羅航海となった。  弓削商船高等専門学校が見える沖に停泊し、さて、これから狭水道の航海だ。 来島海峡を避けて船折れの瀬戸(宮窪の瀬戸)に挑む。 そのころは潮流表で流速と転流時を調べて航海する時代であった。 ビギナ−故の間違いか流向を反対に読み水道に出たがヨットは一向に進まない。 それを見かねた地元の人が陸から声掛けしてくれて、反流を教えてくれる。 小さな船溜まりに停泊して転流時を待っことになった。 再挑戦は事なきを得て通狭した。 最初の狭水道の通峡の経験であった。 それ以来この水道は忌避して今日に至る。 とんでもない昔話を聞かせてしまった。 狭水道の航行は、人にもよるけれど、それだけ記憶に残るものになる経験とも言えよう。 船折れの瀬戸にはいずれ挑戦するつもりだ。


  最近、ここに書いたように、狭水道でヒヤリハットをしてしまう。 いろいろ狭水道について取り上げてきたが、このことで大して当てにならないとバレてしまいそうである、この「まとめ」が何かの参考になれば幸いです。



 下記の「まとめ」をクリックすると詳細に飛ぶことができます。



   ヨットと狭水道まとめ

    

   
http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank059.html

    2022-1-31

 
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2022年01月27日

ヒヤリハットの大畠瀬戸



 2021年の秋巡航では来島海峡、上関海峡、大畠瀬戸、音戸の瀬戸及び下津井瀬戸を通航した。今思い出すと、ヒヤリハットしたのは大畠瀬戸であった。

 慣れは怖いもので、昔なら潮止まりの前後に橋下を通るように時間調整をしていた。  最近は4−5ノットの連れ潮なら関係は無いということで、今回の北航は笠佐島と大島の間を航行して大畠大橋の中央部を目指して針路をとっていた。 橋の近くでは7ノットに上る連れ潮だグングンと橋桁に接近する。 慌てて橋と並行するようにまで左舷に思いきり舵を切りぶつからずに終えた。リ−ショアに気をつけろとはこのことでした。 流されることを計算にいれて橋の中央を目指すことなく左側に寄って航行すべきであった。


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  大畠瀬戸  我が通航図



 おまけに先に通った内航船の500トン以上もある思われる本船が橋の通過後不自然に右に大きく寄せられたのを目撃していた。 先例があったのです。事故なく幸いにも今回は終えることが出来たが小生のような凡人には予見や先例を後になって気が付くものです。


      2022-1-27


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2022年01月23日

更新 ヨットのための海の駅と泊地

 
 昨年の秋巡航の後、更新いたしました。

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   http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41

    2022-1-22
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2022年01月16日

大西洋横断





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 今となっては30年を過ぎた昔話である。佐野所有のニコルソン39ケッチにてペペと小生の3人で大西洋を横断した。

 佐野との共有していた52fケッチを売り、小生は日本で家にそのお金を使う。 佐野は米国人より39fのヨットを購入した。 それをアメリカに持っていくのにスペイン・マジョルカ島のアレナルヨットハ−バ−より出発した。



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 マジョルカ島 アレナルとパルマ



 スペインの南岸をジブラルタルへの航行中、当時はGPSという便利なものは無かった。チャ−トと灯台頼りの夜間航行中、灯台を目指して航行中であった、崖の上の道路上を車のライトが飛行機のように見え不思議な光景を目にした。 霧の視界が悪い中なので、今思えば灯台よりの離間距離をとって航行しなければならなかった。 突然ドスンと止まってしまう。 のし上げたようだ。 朝まで待ち、そこは灯台近くの位置であった。なんとか離礁して近くにあったフェンヒロ−ラのマリ−ナに行き、そこで修理作業を行った。 ロングキ−ルのハルであったので船底に小さい穴があいたのみで浸水はなかった。 その修理はガラス繊維で覆うだけで良かった。



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 赤丸は座礁地点



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 赤丸はジブラルタルマリ−ナ



 ジブラルタル海峡を抜け地中海とは別れて大西洋に突入。 ジブラルタル空港隣のマリ−ナへ停泊した。 ジブラルタる要塞や飛行場横にあるスペインとの入国検問所を通りアルジェシラスを訪ねた。



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 ラス・パルマス


 ジブラルタルよりアフリカモロッコ西岸沖を航行してカナリア諸島のラス・パルマスに停泊した。
30年もたつとすっかり港の様相が一変していて、前の停泊場所を探すことができない。 当時は公共岸壁にこれから大西洋に向けて旅立つヨットが縦付けに停泊していた。 地図の赤地点はカジノがある場所であるがその近くに停泊する。 おまけにそこで散財するために3日も出港を延期した。

 ここと同じように地中海の諸港はマリ−ナが整備されていて、港内にアンカ−で停泊したり、公共岸壁に停泊する場所が少なくなっているように思える。



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 ラス・パルマスよりしばらく南下してトレ―ドウインド(貿易風)をつかみ西航してウインドワ−ド諸島のひとつフランス海外県マルテイニ−ク島をめざす。

 貿易風の風は予想外に強くビュ−フォ−ト階級の風力4-5であった。 追手ゆえにヨットはロ−リングをくりかえし左右に艇体をゆらしながら快調にすすむ。 正中時の天測で正午位置を求めてサテライトナビゲ−タ−で求める船位の確認をした。 ヨット天測はこちらのペ−ジをご覧ください。

 ペペは日本の武道の名手でありすぐれたコッックであったので、動揺する船内でテンプラなども作ってくれて、彼のおいしい料理のせいで、25日の横断中に太ってしまった。

 マルテイニ−クに近ずいてからは夜が明けて午前中にそこへ到着するようにセ−ルを縮帆して時間調整を行う。 マルテイニ−クのランドフォ−ルは感動ものである。 その経験は横断したものの特権でしょう。



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 マラン沖の赤丸にアンカ−停泊



 マルテイニ−クの南端の岬を回った湾は貿易風を押さえた理想的な湾である。 そこは横断を終えたヨットが多く停泊していた。 その中に仏人と結婚した日本女性や日本人家族で32fのヨットでやってきた人もいます。

 小生のカミさんもNYから飛行機を乗り継いでここにやって来ました。 島内めぐりをして楽しんだ。 小生はここで下船してパリ経由で日本へ帰る。 パリではル−ブル美術館を3日間堪能した。

 このあと佐野夫妻は数年に渡ってカリブ海を周航した。 ハリケ−ンに会ってこの艇が80mも飛ばされて陸揚げされ、それを佐野は再び航行できるように就航させた、後日談がある。


 老年の乏しい記憶をたどりながらの昔の横断話でした。 今は変わってしまってお役に立つことは少なくなりましたけれど。



        2022-1-16


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2022年01月13日

人名政の島




 江戸時代の特異な制度の人名政は塩飽諸島の島々に適用されました。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

 それらを訪ねることができたのでまとめてみました。


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 赤丸は人名政の島々とその集落




1. 与島

2. 本島

3. 広島

4. 手島

5. 佐柳島

6. 高見島

7. 沙弥島 (しゃみじま)

 今は陸続きになっていますが、かっては島でした。 柿本人麻呂がこの沖で遭難して流れ着き、歌が万葉集にあるとかで、歌碑があります。


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 またこの島は弘法大使の弟子の理源大師がこの島の生まれたました。彼の胎盤を大きな石でフタをしたということで、それに触れるとたたりがあると、今でも漁港の入り口にふさぐように岩あり、それを残して漁港整備されました。


  
  
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  真ん中の大きな石  瀬戸大橋が見える


8. 瀬居島

  今は陸に続がって坂出市の一部になっている。


9. 牛島

 本島の南にある島。 丸亀市から連絡船2便/日。
豪商であった丸尾五左衛門の住居が残る。咸臨丸の乗組員も他の島と同じようにこの島より出ている。

10. 櫃石島・ひついし島

 下津井の南にある島で最も本土側に近い島である。 島へ行くには、島民しか車で入れないので、バス便を利用することになる。

  咸臨丸の乗組員50名のうち35名が塩飽諸島の出身であるのでこの島も3名が乗り組む。


   2022-1-13


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2022年01月10日

イビザとマジョルカ

   


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 PING 906



  スペインにいた友人の佐野と共同でマジョルカ島のパルマのマリ−ナにあったオランダ人家族が乗っていた52fのステイ−ルケッチ「PING906」を購入した。

 二人で1か月余り英国とスペインにある中古ヨットを探した。 今から振り返っても楽しく懐かしい旅でもあったと思える。 ロンドンではレコ−ドで聞いていた古楽の合奏団やヘンデルのメサイヤの演奏会をを聞くことが出来た。

 2夫妻が乗るということで大き目のヨットを選んだが、スエ−デンヨット42やホルベルグラシ−42などを買うチャンスがあった。

 マジョルカ島のアレナルヨットハ−バ−に係留することになる。 船乗りをしていたので7−8か月の乗船で2か月余りの休暇のときにスペインへ行き、ヨットを楽しむことになった。 要するにこの時期は年中海の生活をしていた。

 海賊の城のある島カブレラやマジョルカ島の南岸、イビザ島を楽しむ。 長いものはイタリアのサルデイニア北岸まで足を延ばした。


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  パルマからササ−リまで


 今思えば40歳代のことになり、30年以上の前のことである。当時にはブログも無い時であり記帳して残してもいなかった。 老人の記憶によるものですので、多少のことは許されたい。

 共同オ−ナ−の佐野が一部を残してくれています。 詳しくはこちらもご覧ください。


   地中海クル−ズ  佐野による
 http://hayame2.sakura.ne.jp/details1044.html#%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E6%B5%B7%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA

    2022-1-11


   我がヨット巡航
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank055.html

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2022年01月07日

芸予諸島の村上水軍城


 瀬戸内にある村上水軍やその城の位置ををまとめてみました。


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  青字は訪れた芸予諸島の海賊城、  赤丸数字は城位置


  下記のクリックで個別の城へ


 @ 備後茶臼山城
 A 岡島城
 B 余崎城
 C 馬神城
 D 青木城
 E 青陰城
 F 長崎城
 G 俵崎城
 H 茶臼山城・生口島
 I 甘崎城
 J 能島城
 K 来島城
 L 鹿島城
 M 美可崎城
 N 千守城
 O 亀山城
 P 岩城新城

     2022-1-7

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2022年01月06日

手術後6年を経過して

  

  2021年 12/3-28まで入院をする。 6年ほど前に脱臼骨折の手術をした肩の「術後感染慢性骨髄炎」との診断を受けて手術をすることになる。 先の手術で肩に2本のピン・ボルトが埋め込まれていた。 今度のレントゲン検査で2本のピンを繋いでいたワイヤ−が切れていたのが映っていました。 それが原因で菌を呼び込み体内で悪さをしたのでしょう。 外傷による菌の侵入ではありません。

 2021年の秋巡航の時には肩に水が貯る症状があり、そのリンパ液が染み出てシャツを汚していました、痛くもなく腕も90度くらいは持ち上がるし、これはリハビリ終了後と同じ可動だったので、気にかけずに小生は満足の行ったクル−ズを楽しんでいました。 帰宅してクリニックへ行ったらすぐ病院行きで、手術をすることになる。 病院では「ピンを抜くようにといわれませんでした?」と問われても施術をした医師はそれを言わずに最近退職していた、リハビリをした地元のクリニックも1年余りのリハビリ期間にそれを云われなかった。 今となればピンを抜く処置は医療の常識であったようだ。

 手術では肩を10cm位切り開いて、ピンを抜きよく中を洗浄しその穴に抗生薬を入れて、また、腐った部分を切除した。 切り開いて現状を見てみないと症状の進み具合を判断できない、最悪には人工関節の手段を取ることもあり得ると病院の医師から聞かされる。 幸いにも洗浄だけで済んだようだ。 再発しやすいので今後は注意が必要とのことである。 寸止めで助かったようだ。 この後、形成外科で穴の開いた部分の治療がある。

  ここやブログで「爺爺のリハビリ治療 卒業」を書いていますが、卒業とはいかなくて再入学となりました。 今度の手術は切ったり貼ったりしたところが少なかったのでしょう。 術後1週間ほどの間に2回の院内リハビリで元に戻れそうな気がしています。 やっぱり再発が怖いなあ。

 問題点は中核医療の病院と地元のクリニックとの連携・連絡がうまくいかないとこのような事態が起きるのではと思われる。 米国の友人は日本にもヤブがいるのだなと...言っていましたが。

 中核病院はすぐに地元へ返したがる傾向があるように感じている。ここ病院の整形外科も紹介がないと診療が受けられない、このような別の問題もあるのですけれど。



      2022-1-6

 
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2022年01月05日

馬神城

    


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 馬神城、青木城,重井港



  生口島にある茶臼山城からの弓削への帰りはタクシ−で金山まで行き、そこからフェリ−で因島赤崎まで行った。ここでバスに乗れば土生まで行き連絡船で弓削に帰ることができるが、時間があるのでバスにて逆方向の重井まで行き馬神城を訪れることにした。 そこはかって青木城を探索したことがあるが、その時は支城にあたる馬神城を知らなかった。

 ここは永禄十年(1567年)青木城を築城した因島村上水軍新蔵人吉充の命により築かれ、側用人頭で第五(付)家老・末長有馬介景光(矢治馬介景親)が城将となった。そこには用人四家、小柱二家、使番五家及び大目付二家と十八(横目付)連中を率いて居城したと伝えられる。

 上の衛星写真で青木城と馬神城の位置関係や馬神島であったことが良くわかる。


 


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  馬神城


 

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 道降寺、  除虫菊ロ−ド脇に建つ




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  登り口と案内表示




 

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 門があったと思われる




 

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 本郭にある祠など

 



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  重井港方向を望む、 土生−重井−三原を結ぶ連絡船もある



 ここへ行くには除虫菊畑の入り口から車で行く方法と海岸沿いを歩き道隆寺へ行く階段を上がると先の道に着くものがある。 まもなく、登り口の案内板を目にする。



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  除虫菊畑の入り口



            2022-1-5





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2022年01月04日

俵崎城と茶臼山城    生口島

    




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 訪れた海賊城



 生口島は個人的には思いで深い町である。  初めての船員として乗船する時に、品川からブル−トレインに乗り尾道で下車。 当時は島々への連絡船のにぎわいのあるなか、瀬戸田造船へ行くためにそれを利用した。 ほどなく本船に乗船して北海道へ向かった。人生の初航海であった。


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 瀬戸田 連絡船降り場、 海の駅でもあるようだ




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 古い街並み風のモダンな建物




 瀬戸田と言えば耕三寺が有名である。そこは好みでは無いのでスル−する。 駐車場の隣に俵崎神社があり、そこが俵崎城跡である。





     俵崎城

 



 


 現在は海から離れた土地にあるが、海賊城にふさわしく岬の先の海城である。 瀬戸田は尾道に次ぐ湊町であった。この城主と考えられている生口氏は織田信長と毛利の戦い、第1次木津川口海戦で毛利方の武将です。


 

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 俵崎城登り口





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 1郭にある俵崎神社 




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  1郭にある高い部分  登れなかった



 

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 2郭を見る







  茶臼山城 生口島



 俵崎城は茶臼山城の支城ではないかと云われている。 観光案内所で尋ねて、そこへタクシ−で向かう。この城を訪れる人が少ないのか余り情報をもらえなかった。

 タクシ-を下りてからは舗装された山道を登っていく。ため池のあるところに手作りの案内板がありため池横を登ることになる。途中で行政の案内板があった。かっては整備されていたのであろう。 タクシ−でため池あたりまで行けるので、乗れれば楽です。


 

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 タクシ−下車 左へ向かう




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  ため池横にある手作りの案内プレ−ト  




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 案内板 



 水タンクのようなもので行き止まりとなり、さらに頂上を目指して道の無いところを登って行くと、、それらしくの一番高い場所についた。標識も無いところであった。これより下り路を探したが見当たらない。 より低い位置で通れそうなところを下っていく。往路に出会うとともっていたが1時間ほどしても無い。 焦りを生じた。 途中で土塁に囲まれた郭のようなところへも到達したが、それに続く道も無い。山で迷ったようだ。


 



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  水タンク

 


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  最も高い場所





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 土塁のある名も知らない郭






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 農場、・「ごちそうの森」の奥にたどりついたようだ。





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 ため池のむこうが「ごちそうの森」



 広島観光連盟のペ−ジより

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  守護神     広島観光ナビより転載

 「標高187メートル、中世の模範的な山城と言われています。周辺には寺跡、居館跡、石風呂跡が残っていたと伝えられています。頂上の一の郭には城の守護神がまつられ、二の郭には井戸跡があり一の郭の南側に三の郭の遺構が残っています。この城はお茶を碾く臼によく似ているところから茶臼山城と呼ばれたと言われる。」

 以上のような山頂の守護神なども見つけられなかった。 案内表示が朽ちていたのかもしれないがたどり着けずに、暴走老人のヨット乗りが山で遭難騒ぎを起こす寸前であった。 今後も注意しなければと......



       2022-1-4


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2022年01月03日

余崎城と岡島城


  余崎城



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 向島, 余崎城、 岡島城



 午前中に備後茶臼山城を訪ねて、午後は因島でレンタサイクルを借りて向島にある余崎城と岡島城へ向かう。 今日の3つの城はすべて村会海賊関係の城である。 因島でもらった海賊関係のパンフレットに載っていたものである。

 尾道から自転車込みで90円という安いフェリ−にて迎島に行く。 余崎城は向島の南岸にある城である。 そこへ行くには自転車で一山超えなければならなかった。 海賊にふさわしい立地で余崎城は海に突き出た岬にある。

 当時の栄えた湊町・尾道を押さえるには最適な場所と思われる。地元に人に尋ねながらお城の登り口へ来た。 しかし登って行くと何かの郭があったと思われる民家のある平地に着いた。 本丸へと続くはしごがあったけれど、不安定な構造で民家の敷地でもあり登ることを断念した。

  登り口の近くには船隠しのある小弯がある。



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 余崎城



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 登り口



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  行き止まりの民家



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 本丸へと続はしご?



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 船隠し


 後で知ったのですが、もう一つの経路があり、それは岬の反対側を通るル−トのようで残念だがその時には気が付くことができなかった。 城跡の整備はされていないもよう。




   岡島城




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 岡島城


 余崎城の帰り・岡島城への往路は1時間余りも峠の頂上まで自転車を押し登りで辛い作業であったが、そこからは向島のフェリ−乗場まで一気に下った。 この近くの造船所の敷地内に岡島城はある。 造船所の守衛さんに尋ねたがご存知なかった。城のふもとの民家の女性に聞いてみると、かってそこには邸宅風の建物があり現在は住んでいないということでした。 登り口を探したが通行禁止の模様。 またしても断念した。

 休止していたフェリ−乗場があり、そこを降りると尾道水道がわの城斜面が見える。

そこには城へ上がる道や船を繋ぐ雁木があったかもしれない。



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 造船所の敷地にある



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 登城口とおもわれる?



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 休止していた尾道―向島のフェリ−


 今日の3城訪問はいずれも満足するものではなかった。 因島の観光案内のパンフレットに載っていたものだが、単なる城の位置を示すものだけであったのでしょうか。 観光施設としての整備はされていない。


    2022-1-3


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2022年01月02日

備後茶臼山城



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 青線、 乗船した連絡船航路




弓削海の駅にヨットを置き備後茶臼山城を訪ねた。 実は尾道にも海の駅がありそこにヨットで停泊したことがあります。 尾道水道は狭く潮流が強い時がある。 それゆえ、そこを出港しようとしたところ、もやいを離すとすぐに自船が隣の船に寄せられていき、シングルハンドで対処するには辛い思いをした経験が有り、一人の時は尾道を避けている。



 面倒なことだが、百島にある村上海賊の備後茶臼山城へ行くのに、弓削から連絡船で因島の土生へ、そこで尾道行きのバスに乗り、尾道から百島へ再び連絡船に乗った。



 その城跡の近くの脇の道に来ているのは確かと思われたが、地元の2人に尋ねたが市への確かな道は分からなかった。 尾道市は瀬戸内では有名な観光地なので近くの島の城跡には興味も予算付けも無く。 遺跡整備に熱心ではないようだ、遊歩道の整備も案内板も無かった。 この城訪問は断念した。





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 尾道よりの連絡船




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 百島案内板





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 備後茶臼山城





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 行き止まりの廃車。 ここより道があれば城跡にいけるのだが





    2022-1-2


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2022年01月01日

我がヨット巡航


  2022年 元旦

   あけましておめでとうございます。

     本年もよろしくお願いいたします。

  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank055.html


 我がヨット人生はY15に始まり半世紀余りを過ぎました。 かすれ行く記憶をたどって巡航の記録をここに取り上げてみました。

 ヨット泊地は最近のものは、できるだけ詳しく取り上げたつもりです。個別のペ−ジをごらんください。参考になれば幸いです。


                        2022-1-1


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