
小島・芸予要塞と来島城
来島へ行く連絡船・フェリ−は来島、小島、馬島へと行くことができる。 来島の他に小島へ寄ってみたのだが、事前に何も知らなかったにもかかわらず芸予要塞を目にするという大きな収穫を得た。 日露戦争に備えて本土防衛用沿岸要塞がそっくり残っているのだ。 旅順攻撃で日本軍が使用した28cm巨大砲砲撃の絵柄を憶えている人は多いでしょう。

連絡船・フェリ−から見た小島

案内図 芸予要塞 1902-1922
北部、中部、南部と3つの砲台群があり、それぞれ兵員退去所や発電所がある。 中部には周囲を見渡せる観測所がありそこからの指示で間接射撃を行ったものと思われる。

28cm りゅう弾砲のレプリカ、 船着き場近く
船を降りるとすぐに南部砲台に至る。 そこには12cmカノン砲2門が置かれた。この砲座は海から見えない構造である。カノン砲は直接照準の火砲であるが、防御を重視して間接照準での敵艦攻撃をここでは計画したのであろうか。

南部砲台 カノン砲座
発電所跡がありさらに歩くと弾薬庫跡に至る。 弾薬庫は危険な場所ゆえ周りを崖で囲む地形にあった。

中部砲台跡 28cm榴弾砲 この砲座に2門設置

中部砲台 28cmりゅう弾砲6門を設置
ここの2門の28cmりゅう弾砲は203高地の砲撃のために移動され活躍したという。

指令所跡 ここで海峡を監視観測して28cm砲へ砲撃を指令する

北部砲台
北部砲台には24cmと9cmカノン砲がそれぞれ4門あった。 要塞廃止が決まった後で空爆演習がここで行われた。

空爆跡

24cm カノン砲
ここより下に降り海岸沿いの道を船着き場まで帰った。

来島海峡中水道を左に眺めながら歩く
なお、芸予要塞は三原の瀬戸を望む大久野島(うさぎ島)にも対にあたる大久野島要塞があった。
ロシアの恐怖におびえた明治の指導者は、海軍を育て海岸要塞を築いて対処して、最後には勝利した。 今にも中国が台湾に侵攻しようとしている事態の令和の現指導者はそれに対応すべき何かをしているのであろうか? 日本は30年の大停滞を過ごしたとはいえ、今の日本の経済力は明治のそれとは比べるまでもなく大きくて良いはずだ。いいお湯だと気持ちよくなっているうちにその湯は熱湯へと変わるでしょう、裸でフロから飛び出しても遅い。
ソ連の中距離核ミサイルの配備に対して、ドイツは米国の中距離核ミサイルを配備すことで対処した。日本はそこまでのことをしなくてもよい。9条の改正を待たなくても良い。 日本は対艦ミサイルや機雷の大量保有で中国に攻められない抑止力を持つことができるのではないでしょうか?
芸予要塞を見て、明治の・維新の指導者に思いを寄せる小生には、このような想起をすることを身の丈を越えるものと言えるであろう。
2021-12-1