2021年11月30日

芸予要塞  小島・おしま

  

    


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 小島・芸予要塞と来島城


 来島へ行く連絡船・フェリ−は来島、小島、馬島へと行くことができる。 来島の他に小島へ寄ってみたのだが、事前に何も知らなかったにもかかわらず芸予要塞を目にするという大きな収穫を得た。 日露戦争に備えて本土防衛用沿岸要塞がそっくり残っているのだ。 旅順攻撃で日本軍が使用した28cm巨大砲砲撃の絵柄を憶えている人は多いでしょう。



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 連絡船・フェリ−から見た小島


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 案内図    芸予要塞 1902-1922


 北部、中部、南部と3つの砲台群があり、それぞれ兵員退去所や発電所がある。 中部には周囲を見渡せる観測所がありそこからの指示で間接射撃を行ったものと思われる。



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 28cm りゅう弾砲のレプリカ、  船着き場近く


船を降りるとすぐに南部砲台に至る。 そこには12cmカノン砲2門が置かれた。この砲座は海から見えない構造である。カノン砲は直接照準の火砲であるが、防御を重視して間接照準での敵艦攻撃をここでは計画したのであろうか。



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  南部砲台 カノン砲座 


 発電所跡がありさらに歩くと弾薬庫跡に至る。 弾薬庫は危険な場所ゆえ周りを崖で囲む地形にあった。



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 中部砲台跡 28cm榴弾砲 この砲座に2門設置


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 中部砲台    28cmりゅう弾砲6門を設置


 ここの2門の28cmりゅう弾砲は203高地の砲撃のために移動され活躍したという。


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 指令所跡  ここで海峡を監視観測して28cm砲へ砲撃を指令する



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 北部砲台

北部砲台には24cmと9cmカノン砲がそれぞれ4門あった。  要塞廃止が決まった後で空爆演習がここで行われた。


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 空爆跡



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 24cm カノン砲

 ここより下に降り海岸沿いの道を船着き場まで帰った。


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 来島海峡中水道を左に眺めながら歩く


 なお、芸予要塞は三原の瀬戸を望む大久野島(うさぎ島)にも対にあたる大久野島要塞があった。

 ロシアの恐怖におびえた明治の指導者は、海軍を育て海岸要塞を築いて対処して、最後には勝利した。 今にも中国が台湾に侵攻しようとしている事態の令和の現指導者はそれに対応すべき何かをしているのであろうか? 日本は30年の大停滞を過ごしたとはいえ、今の日本の経済力は明治のそれとは比べるまでもなく大きくて良いはずだ。いいお湯だと気持ちよくなっているうちにその湯は熱湯へと変わるでしょう、裸でフロから飛び出しても遅い。

 ソ連の中距離核ミサイルの配備に対して、ドイツは米国の中距離核ミサイルを配備すことで対処した。日本はそこまでのことをしなくてもよい。9条の改正を待たなくても良い。 日本は対艦ミサイルや機雷の大量保有で中国に攻められない抑止力を持つことができるのではないでしょうか? 

 芸予要塞を見て、明治の・維新の指導者に思いを寄せる小生には、このような想起をすることを身の丈を越えるものと言えるであろう。


     2021-12-1


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2021年11月29日

来島城


   
     


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 来島海峡の各水道(青字)と来島城、芸予要塞

 来島海峡をヨットで西航するときには今治に停泊し潮流を待って航行する。 本船航路の中・西水道は避けて来島の西にある勝手にヨット推薦水道と名称した水道を小生は航行している。

 村上海賊に強い興味を持っている私としてすでに鹿島城を訪ねているので、念願の来島城へ行きました。

 今治海の駅にある第2桟橋近くのバス停より「渡し場」経由のバス便に乗りそこで降り、波止浜港(観光休憩所)から連絡船に乗船します。10分ほどで来島へ到着です。


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 波止浜にある連絡船乗り場(切符は観光休憩所)の燈明台


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 連絡船から見た来島城

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   案内図


 連絡船を下船して右手報告に数分歩くと、左に上る入り口があります。すぐに石垣が見える。

 
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 来島城入り口


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  2の丸付近の石垣

 そのまま行くと突き当りになり居館跡・心月庵、わかりにくいけれど3の丸へ上がる左の道を往きます。
来島神社、2の丸、本丸へと至る。

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  来島神社

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 2の丸

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本丸跡、  鉄塔がある




  来島 ヨット泊地

ヨットでは行けなかったが、下写真の場所につけられそうである。 フェリ−は連絡船乗場の水道に面している側しか着桟できない。潮流が渦巻いており潮時間と連絡船の空き時間を知っておかないとヨットでそこにつけるのは無理でしょう。 下の漁船の前なら島見学に要する2−3時間なら可能かと思われる。
 
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 停泊位置


  鹿島城と得居通幸
 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-26


     2021-11-29


 

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2021年11月27日

佐柳島・さなぎしま

  



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 案内板  人口は2部落で60人という


 佐柳島は長崎港の係留に失敗したので多度津に泊まり、翌日に連絡船でここを訪ねた。 長崎から本浦までは徒歩20分くらいの距離です。 歩いてそこへ行き、帰りの船便を得た。


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 本浦で連絡船を待つ間に足元から離れない子猫


 塩飽諸島に残っている両墓制のお墓近くにもニャ−と呼び掛けてくる猫がいる、島のあちこちで人慣れした猫を多く見かけた。愛猫家には有名な島とのこと。 

 海援隊士であり、いろは丸の紀州藩船との衝突の際には当直仕官であったという佐柳浩高次(さなぎこうじ)はこの地にも長崎集落があるが「出島の長崎」で死亡したけれど、この地元にお墓がある。そこを訪ねた。



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 中央が佐柳高次の墓  前田が本名である

 



  佐柳島 ヨット泊地


 予定していた長崎港の岸壁には階段横から直角にチェ−ンが飛び出していて着岸不可であった。
港も狭く連絡船の反対側も利用できないので、ここより本浦港が停泊には良いように思う。ただし本浦港近くの海域は浅いところがあり、十分な注意が必要である。


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 佐柳島  長崎港入り口
 


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 長崎港  青丸は失敗した岸壁


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 長崎港  チェ-ンの飛び出し



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 本浦港   赤丸は停泊地



    2021-11-27


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2021年11月25日

小手島と高見島


  
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 塩飽諸島


 手島を出港して小手島に立ち寄り佐柳島の長崎で1泊するつもりであった。佐柳島北部にある長崎の港へ入ると予想以上に狭く、予定岸壁に行く、そこからチェ−ンが張り出していて着岸不可能。 発見が遅れると船首をぶつけるところでした。佐柳島の停泊をあきらめ高見島へ向かう。 そこでは連絡船の着桟側の向かい側の利用していない側にヨットを着けた。2時間ほど見学して多度津海の駅に向かい停泊した。 ちなみに、手島、小手島、広島、本島は丸亀から連絡船・フェリ−が来る。 佐柳島、高見島は多度津からそれは来る。


  小手島・おてしま


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 小手島

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 案内図       19所帯33人が住む

 明治のころまで無人島だったが手島、北木島、真鍋島より移住者が来る。親の手島よりも賑わいを感じる。 漁業が手島と違い今でも盛んなようだ。手島よりも小さいにも関わらず人口が多い。
少しの間小手島を見て回ったけれど、帰ってから印象が薄くあまり思い出せない。

  
  小手島ヨット泊地

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 赤丸が停泊地  短時間限定の模様

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  連絡船ポンツ−ンの反対側



   高見島  

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 高見島案内板、  人口は27人という

 高見島は船乗りには備讃瀬戸北航路と南航路に挟まれた島にあり、その島の北を西航し南を東航することから見慣れた馴染みのある島である。でも、訪れた人は少ない。咸臨丸の4人の船員を出した島でもある。 そのお墓があるということで大聖寺へ向かった。しかし、案内板が無くみつけることはできなかった。


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 大聖寺の門にある力士の木像


  竜王山が岸まで迫り平坦地が少ないので山の斜面に沿って家を建てて住む。 塩飽諸島に立ち寄って知ったのですが、両墓制というお墓の制度が残っており、埋葬するところとお参りするところが別になっている制度のようです。 日本古来の様式だという。 

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 両墓制のお墓

 寅さんお映画をテレビで連続して放送している時に、覚えのある映画で題名は忘れました。下の写真の映画です。そのスト−リ−は、引退した船長のところに、港々に女ありというような設定で生まれた娘が病気になりそこで静養をしていた。寅さんが家出したさくらの息子を探しにこの島へ来て彼女に出会う、いつものようにラブコメデイが始まりそして終わる。 この島を訪れてみて船乗り出身者を多く出した島のようには思えなかったが、歴史的にはあり得る設定である。 船乗り稼業に染まったことにある小生にはおもしろかった。

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 寅さんのロケ地となった高見島


 米国で成功した人が故郷に錦を飾った、石垣のすばらしい家が残る。

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 中塚邸  


    高見島  ヨット泊地

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 赤丸は停泊場所

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  泊まることもできそうである


 連絡船は正面を利用するので左右両サイドが利用可能だが沖から見て右側は堤防に近く避けて方が良いように思われる。

     2021-11-25


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2021年11月23日

手島・てしま


     

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 手島を望む

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 手島は15所帯(人口20人)の島です。 一度訪れたくて昨年ヨットで港の停泊場所の事前視察をしています。 江戸時代に人名制で特別な自治制度を認められた塩飽諸島のひとつであり、google マップで見つけた手島城に行ってみたくて今回のクル−ズで訪れてみました。


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 高札場・制札場

 本島にある塩飽勤番所からお触れが出てここに貼られて人名制の手島住民に知らされた。


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 海岸から2つ目の山が城山・手島城跡

 手島城をめざした。 蛇が出る情報があり、事前に長めの長靴を用意して出かけた。 地元の仕掛け猟をしている人に尋ねてみたが、行ったことはなさそうであった。その人によるとエビ対策でキジを放ってあるとのことであった。 そのせいかキジの飛び立つのは見かけたが、幸いにも蛇に出会うことはなかった。 結局、案内板もなかったこともあり城跡にはたどり着けなかった。


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 この石垣は廃墟になった民家のものかもしれない



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  ヨットのつけたポンツ−ンでの撮影風景

 丸亀から来た連絡船でシンガ−ソングライタ−の女性の生歌を聞く機会があった。島内のあちこちで撮影しているのを目にする。カン高いかすれたかよわい声が島内に響いた。

  手島  ヨット泊地



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 手島 ヨット泊地  赤丸係留    青丸 最初の位置


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 最初にもやった位置

 ヨットの停泊場所は先に想定していた場所はフェリ−の着く横であったが、スペ−スが短かったので不適。 写真のように防波堤へもやったがここも3m余りの潮汐には不適。そこで連絡船のキップを売っているおばあちゃんに許可をもらい、ポンツ−ンの反対側に移動して着けた。


         2021-11-23

posted by はやめ at 10:40| Comment(0) | 日記

2021年11月21日

2021年 秋クル−ズ


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  今年の巡航は10月28日から児島を出て11月17日に帰港するまで3週間の期間で、瀬戸内中部を楽しんできました。 今度は連れ合いは同行することなく、シングルハンドです。

  周航前のプラン

1. 塩飽諸島の手島、佐柳島、高見島を訪ねて、小名政の跡がないのか、また、龍馬の「いろは丸」が鞆の浦近くで沈没した、その時の当直仕官であり海援隊士でもあった佐柳高次(さなぎたかじ)の生まれた島の佐柳島を訪ねること。
2. 伊予と長浜に寄港して歴史的保存の街並みがある内子町と卯之町を、そこから鉄道で訪ねること。
3. 村上海賊のひとつ来島海賊の本拠地にある来島城、因島村上氏の本拠地青陰城とその主要な周辺城を訪ねること。
4. 斉島、青島、中島、津和地島、平郡島、柱島などを訪ねること。

 今までに瀬戸内周航で行けば良かったと思いを残して、落穂拾いのような企画をしてみました。


  実行した航海

10/28  児島から手島へ、   手島城を探す。  手島泊
10/29  手島から小手島を2時間立ち寄り佐柳島へ、長崎港が狭く停泊できずに高見島寄港、2時間ほど散策して多度津港へ。     多度津泊
10/30  連絡船にて佐柳島訪問、   多度津泊
10/31  多度津から仁尾マリ−ナへ。 仁尾泊
11/1  仁尾から今治へ。  今治泊
11/2  連絡船で来島へ、来島城訪問。さらに小島へ、芸予要塞を訪れる。  今治泊
11/3  今治から松山堀江へ。 堀江泊
11/4  花見山城と宅並城をたずねる。葛龍屑城は断念した。 堀江泊
11/5  堀江から伊予港へ。 伊予泊
11/6  JR予讃線で内子町と卯之町へ。 2つの歴史的保存街並みを見る。 伊予泊
11/7  伊予から上関へ。 北東風で時化る。  上関泊
11/8  上関から五日市メ−プルマリ−ナへ。 メープル泊
11/9  なつかしの旧港廿日市を訪ねる。  メ−プル伯
11/10  メ−プルから下蒲刈島へ。 三番瀬の町を見学と丸谷城を見る。 下蒲刈泊
11/11  下蒲刈から三原へ。 三原泊
11/12  新高山城へ、 高山城は断念した。  三原泊
11/13  三原から弓削へ。  青陰城を見学  弓削泊
11/14  尾道へ因島からバスで行く。 連絡船で百島へ。 備後茶臼山城へ。 尾道に帰ってレンタサイクルで向島の余崎城と岡島城へ    弓削泊
11/15  因島からバスで瀬戸田へ。 俵崎城と茶臼山城を訪れる。 因島・馬神城を訪ねた。  弓削泊
11/16  弓削泊
11/17  弓削から児島へ。 秋巡行を終える。

 伊予まで来て天候が悪化の予報が出る。 長浜へ行く予定を取りやめて。内子町と卯之町の見学を1日にまとめた。
 予報よりも早く天候が悪くなり北東風が強い中で上関へ向かう。ヨットを老年にして手に入れて以来の久しぶりの時化であった。

 面白いことに、海で遭難することも無く山で遭難しかけた。 生口島の村上水軍ゆかりの茶臼山城で頂上近くへ行く道が無くなっていたので、一番高いところをめざしてそこには到達した。 帰りは道に迷い来た道に帰れず、遭難しかけた。 ひたすらに下へ向かう平坦な道を探し続けて、無事、事なきを得たが、暴走老人のご迷惑を世間にかけるところであった。 他にもヒヤリハットする場面は3度ほどあった。

 まあ、楽しく満足してクル−ズを終えた。今年の前半はコロナで大人しくせざる負えなかった。 ところで、小生の年になると、老人のロシアンル−レットはいつ来るか分からない、小生はその年ごろに突入した気がしています。


     2021-11-21


posted by はやめ at 13:39| Comment(0) | 日記