2021年01月31日

早島陣屋・早島城・天城陣屋




    倉敷の陣屋・ 早島陣屋、早島城、天城陣屋  




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早島陣屋、早島城、天城陣屋の図





 晴耕雨読ならぬ晴航雨城である小生。 倉敷にヨットを係留している。そこでクル−ジング準備・整備中の雨天は城廻りとなる。 今回はJR瀬戸大橋線の早島駅で下車して早島城・早島陣屋・天城陣屋をカサさして歩いて来ました。 写真は雨のために鮮明を欠くものがあります。

 駅を降りて早島公園に向かう。 ところどころに昔の民家風の建物がある。 また、宇喜多堤の案内があった。 悪名高い宇喜多氏といえども堤をつくり、後に教科書にも載る児島干拓の最初の一歩となり領地経営には力を尽くした。





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 早島町の民家




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 児島と早島  昔は瀬戸をなし水路を船が通行して水運の要所であった。




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 赤い線は堤の位置




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 宇喜多堤石碑




 早島陣屋を探す。 そこは現在では小学校になっていて、横に案内板があるのみであった。 別名戸川陣屋と言い200年間治めたという。 あいにく休館日で戸川記念館を見ることができなかった。 戸川秀安は宇喜多直家の重臣で25000石を領した。国政を宇喜多秀家にまかされたが対立するようになり、家康預かりとなる。関ケ原で東軍に参じ功を挙げて庭瀬29200石を与えられる。その後断絶したが、家名存続を許されて幕府旗本として続く。






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 戸川記念館




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  早島陣屋 1709年築  わずかに残る堀と石橋




 その小学校の裏手奥に早島公園がある。 そこは城山ともいい早島城の跡地である。 遺構らしきものは見当たらなかった。その城主は武井将監といわれる。 備中高松城の前哨戦で高松城の北にある支城・冠山城の戦いで将監は加藤清正と一騎打ちで戦い死亡したという。秀吉はあっぱれと金子50両を与えたという。




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 公園内の城らしい雰囲気の場所




 早島城の坂を下って今度は天城陣屋に向かう。 早島町は平成の大合併に加わらなかったので岡山で一番小さな町ゆえか趣のある民家が散見される。





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 早島から天城へ向かう途中の民家1




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 早島から天城へ向かう途中の民家2




  笹無山の案内板を見かけた。 源平合戦には詳しくないが、ここらあたりで藤戸合戦があったという。当時にはこの向こうは海で瀬戸を挟んで源平が対陣していた。源氏は海が不得手なので対岸の種松へ行くのに難儀する。佐々木盛綱は地元の漁師に浅瀬を聞き、先導させて馬で海を渡り源氏の勝利に貢献した。佐々木盛綱はその浦人を殺してしまう。残された母親は笹と聞けば憎いと言い、笹を抜き取った、それからこの地では笹無になったと云う。






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 笹無山




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笹無山   藤戸合戦説明板




 なかなか天城陣屋を見つけられなかったが、高校の隣山にあるグランドであると分かった この陣屋は―国一城の制で岡山藩の下津井城が廃城になり、池田由之はこの地にお茶屋と称して陣屋を立てた。
 池田由之(1577-1618)は池田恒興の嫡男元助の嫡男として誕生。小牧長久手戦いで父・祖父ともに戦死。幼児であったので叔父の池田輝政が家督を継ぐ。長じて32000石で下津井城番になる。本家の国替えとともに播磨・鳥取・岡山とその居を変えた。最後は恨みに寄り大小姓に殺害された。






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 天城陣屋跡  現在は天城高校グランド


 駅を降りてJR3駅ほど雨天を歩いたことになる、途中にタクシ−やバスを探すが見つからず。さすがに疲れて帰りはGoogl mapでバス停をみつけて帰る。




      2021-1-31

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2021年01月24日

魚島

  



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 備讃瀬戸を東西に航行していた時に、島にビルが建っているのを見かけたので、気になっていた。 今回新居浜より弓削に行く機会があったので、立ち寄りしてみる。
魚島は愛媛県上島町に属し瀬戸内の真ん中にある島であるが、交通は本土方面の因島と弓削島より町立の連絡船があり、 愛媛県・弓削島には上島町の役場がある。



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   魚島   南方より眺める



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 魚島港入り口風景  離島にしてはビルが目立つ


 港内に入って少しウネリがあるようなので、予定していたところより奥へ行った。 漁具の手入れをしていた老人に尋ねて、その人の勧めでポンツ−ンに係留しようと1本のもやいを取った後でスグに、これの持ち主と思われる漁師さんから怒られてしまう。 しかし、好意により明日までの係留は認めてくれた。 無断で自身の所有のポンツ−ンにヨットを係留されれば怒るのはもっともである。 一応、地元の漁師さんに聞いたつもりであったのだが。 
シングルハンドであるとヨットの着岸は一発できめたいものである。 いつまでたっても着岸に習塾しない小生にも問題ではあるが、ロープを舵にからめてしまった。 11月の海中に潜ってはずす羽目になった、思ったより水温は温かかったけれど。



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 青丸 予定係留地   赤丸 実際の係留地




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 港内 


 洋上から目にしたとビル群は離島振興法で出来た建物であった。観光センタ−や住宅に使われていた。



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 赤丸 係留場所   養殖業者のポンツ−ンに係留させてもらいました



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 青丸 予定していたの係留場所  小さいウネリが入っていた


 最初にイヤな思いをすると後にひきずるもので、この島の印象は個人的に良いものではなくなった。 あとの時間も有効に活用することもなく終わってしまう。残念である。機会があれば気を取り直して訪ねてみたいものだ。


   2021-1-24






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2021年01月22日

川之江城

   



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 川之江 地理的位置




 ヨットから見たお城で今までに印象的であったのは40年ほど前に見た松前城そして最近の平戸城それに今回の川之江城である。これからもヨットで訪ねる城廻は続けたいものです。





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 川之江城





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 模擬天守  過去を復元されたもののではない 犬山城をモデルにしたとか



 個人的に南北朝の戦いには余り興味が薄いのでその歴史には詳しくない。 河野氏方の伊予の豪族で川野通政がこの城を築かせたものという。 川之江の地理的位置が土佐、讃岐、伊予を結びおまけに海で備中ともつながっていた。 従い、いろんな勢力から攻撃を受け落城している。戦国期には河野氏、三好氏、長曾我部氏、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏とめまぐるしく城主は変わり、1600年の関ケ原の戦いの後で加藤喜明により織豊系城郭と改築された。一国一城の令により喜明が伊予松山城に居城を移し廃城になった。






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  城門  歴史的にどうであったかは不明




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 本丸より川之江港を望む  小さく愛艇が見える




    2021-1-22



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2021年01月20日

ヨット泊地選びの成功と失敗

  
 現在のヨットクル−ジングには、スマホを使ってNew pec smartで航海支援、Windyで気象支援、さらにGoogl mapの航空図で泊地選びをされていることでしょう。  クル−ジングで成否を決めるのは泊地選びにつきます。 オールドセ−ラ−なので、かっては小型船用簡易港湾案内のみしかヨットの泊地選びには選択肢がなかった。 今では、スマホ1個で航海できるようになりました。

 今回の秋巡航でのヨット泊地選びの成功と失敗をここに述べます。 係留地の選択にはスマホ以上に大きなものがあります。 それはそこに行ったことのある経験者から情報を得ることです。これがあれば事前のスマホによる泊地確認することで事足ります。 今度の中部瀬戸内の巡航での川之江の泊地と新居浜大島での泊地選びの成功と失敗を述べます。

 余談になります、小豆島(香川))から上関(山口)までのヨットの航路選びのことですが。 来島海峡を通るつもりなら、小豆島−仁尾マリ−ナ―今治−上関になるか、小豆島−弓削海の駅−大三島海の駅−上関の2つの航路になるかと思われます。 他に弓削−鼻繰りの瀬戸−御手洗−上関もあります。



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  中部瀬戸内実用ヨット航路



 上記の標準的航路から外れるせいなのか、新居浜マリ−ナはともかく川之江や新居浜大島の泊地情報はなかなか手に入るものではありません。そこでスマホの衛星写真から川之江と新居浜大島の泊地を選びました。



 1.川之江泊地  失敗例

 西風の強風が2−3日続いていたので、川之江の奥地のふ頭(赤矢印)を選びました。そこに行ってみると下記写真のごとく潮の加減のせいか岸壁の背が高くビットも少なく「もやい」をとるためにとてもシングルハンドでは岸壁に上がることはできなかった。



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 赤矢印は最初に選定地   青矢印は実際の泊地




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 赤矢印の予定岸壁   3-4mの潮汐がある






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 赤矢印の予定岸壁地  反対側から見る




 そこで急遽新港の漁港桟橋に向かう。地図の青矢印地点は黒ゴム製のフェンダ−を兼ねたものが桟橋に4−5か所あったので、その一つにもやいを持って岸壁に上がり、無事係留することができた。 ここは漁獲物を上げるために出来たものであるが、水産物加工業者が参入しなかったので、空きのある岸壁になっている。地元の漁船は反対側の5つほどあるポンツ−ンにとめている。出口近くにあるポンツ−ンにはヨットを着けられそうな気配があったが、確かめていない。 潮の高低があるのでそこのポンツ−ンががベストのような気がしています。

 



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 青矢印の着岸桟橋




 2.  新居浜大島  成功例



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 新居浜大島は上図の新港に着岸した。 旧港は航空写真を見て適当なスペ−スを見いだせなかった。実際に現地で見ても予想どうりであった。
ここは強風が予想されるときには近くの新居浜マリ−ナを利用することになりそうです。




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 ゴム製はしごフェンダ−のある位置にヨットをつけた。





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 旧港  フェリ―桟橋がある



   ヨットマンのための海の駅と泊地
    http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41 


    2021-1-20



タグ:ヨット泊地
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2021年01月18日

青木城・小丸城


 因島の城 その2 

    小丸城


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  因島村上家の第2家老稲井氏の城。居館は現在の対潮院にあった。いつものように何人かの人を煩わせた。ありがとうございます。地元の人にも古い人はともかく若い人には小丸城のことは伝わっていない模様。  裏の墓地への階段を登って行く。 途中に南北朝の戦いで釣島箱崎箱崎浦合戦の供養碑があちこちにある。 海上戦とも言われる戦いで亡くなられた方がここに弔われたということであろうか。 その時に今のような墓地があったわけではなく、この城もあったかどうかは分からない。 山頂と思われるところまで墓があった。 それより歩行困難であったので終わりとした。

 ここは海岸近くというわけではなく因島の東岸や西岸への好立地であるので、求めに応じて加勢するためのものではないでしょうか。



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 墓地の裏の山が小丸城跡


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 登り口  対潮院の裏


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 あちこちにある釣島箱崎浦合戦で戦死者を弔う碑


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 本丸と思われるところ





   青木城


 一昨年に弓削海の駅でヨットの漏水事故が起きて、その修理備品を待って5日ほど滞在した。 部品を引き取りに隣の島因島マリ−ナに出かける。 行く途中で青木城の案内板を見つけたが、先を急いでいたので残念を持ったままであった。 今回は自転車でここを訪ねた。



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 青木城と付け城の馬神城



 1567年に因島村上氏6代村上新蔵吉充が向島余崎城より青木城へ移った。 吉充は信長と対戦中の石山本願寺へ兵糧を掘んだことで知られている。

 ここは三原の瀬戸を押さえる位置にある。青木城は海に囲まれた海城であった。 昔の地形が定かではないが隣の馬神島であった。海峡を隔てたそこに出城の馬神城があった。今回はそこへ訪れていない。


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 模型


 
 本丸から続く北側に大手門、東へ尾根つたいに2の丸、3の丸、搦手と続く。


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 この理容店の横を登っていく



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 青木城  標高51m



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 石垣



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 本丸の柱石



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 本丸にある竜王神社  ここで昼食する


 帰りには自慢のオリンピックで購入したフリ−パワ−の自転車がパンクした。 あいにく日曜日で修理が出来ず。 タクシ−を呼び、折りたたんで後部トランクに積み、土生港へ行き、連絡船で弓削まで帰った。



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 パンクした自転車


      2021-1-18


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2021年01月16日

美可崎城・千守城・島前城  因島


 因島の城 その1  美可崎城・手守城・島前城


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 美可崎城、千守城、島前城

 ヨットを係留した弓削海の駅より船に積んでいた自転車で因島城探索に出かけた。 上弓削よりフェリ−にて(自転車100円)因島家老へ渡る。

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 上弓削の因島家老間の上弓削 フェリ−乗場

  美可崎城

 因島東岸を走って地蔵鼻へ向かう。そこは恋人たちの聖地とかであるが、今回はそこにはいかず岬の先端に美可崎城を訪ねた。

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 美可崎城の入り口ゲ−ト


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 美可崎城図

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 本丸へ

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 本丸から向島を望む


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美可崎城  船隠し

 美可崎城は因島村上海賊の家老南氏が金山氏に通行料を徴収するための見張り城であった。 鞆の浦や尾道からの船を見渡せる位置にある。
石田造船のある道を登ってきたのだが、ここの帰りは反対側の道を一気に下って降りた。



  千守城・ちもりじょう


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  千守城

近くの千守城に向かう。なかなか登城口が分からず、いつものように地元の数人に尋ねた。安楽寺の傍から登って行く。気を付けていくようにと注意を受けたが案外と険しいものではなかった。 標高79mの地に本丸を囲んでほぼ円状に4段に築かれている。石垣の残っているものと井戸を見つけた。 山頂の本丸には社が祀られている。
南北朝の時代に竹原小早川氏の一族が居城し、戦国期には因島村上氏の家臣篠塚貞忠の居城という。


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 安楽寺


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 縄張り図


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 石垣


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 井戸


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 千守城本丸からの眺望



     島前城と亀島城(出城)

  因島南部に東岸から西岸へ島を横断する道路があり、そこを自転車で走行する。 途中大山神社がありガソリンスタンド横に釣島箱崎浦の合戦跡の碑を見つけた。 釣島は今は鶴島と呼ばれている。 新居浜大橋で述べた村上海賊の祖が死亡して娘婿と言われる今岡通任が因島へ進出、島前城に本拠を構えた。 信濃の国より村上師清は瀬戸内に下向した。讃岐塩飽を支配し能島に進出。
鶴島箱崎浦の海戦で勝利して因島に上陸し今岡方の武将を破り義弘の明晰を継いだ。この村上師清が能島・来島・因島の村上海賊の祖となる。
 

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  釣島箱崎浦合戦地図

  いつものことであるが、ここもたどりつくにに苦労した。すぐ横の崖の上にあるとわかっているのだけれど何人かの人に尋ねた。
ここだと思って登って行った山は隣の山だったようで藪を書き分け書き分けて行ったところはテレビアンテナを引いているだけの山頂であった。


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  間違えた登山口



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 島前城跡配置図。田中稔「因島史考」による


  因島市民会館と芸予文化情報センタ−(図書館)で尋ねて図書館の横の階段を上った空き地だとわかった。

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 海岸道路から見た島前城


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 本当の入り口  土生町図書館横


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 本丸


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 北西方を望む

 島前とは海峡を挟んで亀島がありそこに出城の亀島城があったがゆえの名称であろうか。

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 亀島城

 
     2021-1-16

posted by はやめ at 13:42| Comment(0) | 日記

2021年01月09日

新居浜大島と新居浜マリ−ナ


1. 新居浜・大島

 
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 赤丸 ヨット係留地



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 旧港 連絡船乗場


  川之江から新居浜・大島へ向かう。 ヨットの係留場所は連絡船乗場のある旧港に行けばそのスペ−スは無かった。 予定どうりの新港の漁港物揚場岸壁に係留した。
瀬戸内ゆえに潮汐は3mほどの高低があるので、乗降りを考えてゴムはしごのある位置にヨットを着けた。 地元の人に係留の可否を問うたが、空いているようで3−4日はOKとのことでした。



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 新港 係留場所

 村上海賊の発祥の地ゆえ大島城と街並みを散策した。


 2. 新居浜マリ−ナ


 翌日はすぐ近くの新居浜マリ−ナへ向かう。 瀬戸内海をヨットで西航する際には小豆島や仁尾マリ−ナから弓削海の駅ないし今治海の駅へいくのが妥当な航路であると思う。従い川之江や新居浜によることは少ないでしょう。 新居浜マリ−ナでは水と電気の補給ができます。 しかし電気代が1時間100円と以上に高く、冷房でも使用するのでなければ早くバッテリ−をフルにして切り上げたいところです。 町への交通は案内所でよく聞いておく必要があります、不便です。 シャワ−の利用もできます。

 

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 大島と新居浜マリ−ナ



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 ゲストバ−ス・給油さんばし



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 マリ−ナ

 ここでは1日で3つの城跡をめぐった。


      2021-1-9

posted by はやめ at 07:57| Comment(0) | 日記