2019年11月24日
更新 ヨットマンのための海の駅と泊地
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2019年11月23日
2019年 秋のクル−ズ
東瀬戸内海をクル−ズしました。
10/19 倉敷着
10/20 より 整備 バッテリ−交換等
10/24 雨のため 備中高松城 見学
10/25-28 道板製作
10/29 プロペラにカキ多し判明、 潜って一部取り除く
10/30 上架してペラクリン塗装
10/31 倉敷−北木島 メンセ−ルをロフトに持っていく
11/1 北木島−倉敷
11/2 整備
11/3 ジブセ−ル補修
11/4 カミさん到着
11/5 下津井旧街、下津井城 見学
11/6 メンセ−ルリペア到着設置
11/7 倉敷発-牛窓ヨットハーバー 旧市街 見学
11/8 牛窓-小豆島池田泊
11/9 小豆島 見学
11/10 小豆島−引田着
11/11 引田旧市街、引田城 見学
11/12 引田発−都志着「淡路島」 高田屋嘉兵衛記念館休館中
11/13 都志発―木場ヨットハーバー「姫路」着
11/14 姫路城 見学 カミさん帰る
11/15 木場発−牛窓ヨットハーバー着
11/16 牛窓発−倉敷着
11/17 旧オ−ナ−と坂出で会う
11/18 整備
11/19 帰着
ほぼ1か月の期間でしたが、整備に時間をとられすぎました。 今までの記憶と違い、最近はこの台風明けのシ*−ズンは良い天候が続きクル−ズには最適な季節と言えます。 かっては11月は季節の変わり目で悪天候であったような気がしていました。

2019-11-23
10/19 倉敷着
10/20 より 整備 バッテリ−交換等
10/24 雨のため 備中高松城 見学
10/25-28 道板製作
10/29 プロペラにカキ多し判明、 潜って一部取り除く
10/30 上架してペラクリン塗装
10/31 倉敷−北木島 メンセ−ルをロフトに持っていく
11/1 北木島−倉敷
11/2 整備
11/3 ジブセ−ル補修
11/4 カミさん到着
11/5 下津井旧街、下津井城 見学
11/6 メンセ−ルリペア到着設置
11/7 倉敷発-牛窓ヨットハーバー 旧市街 見学
11/8 牛窓-小豆島池田泊
11/9 小豆島 見学
11/10 小豆島−引田着
11/11 引田旧市街、引田城 見学
11/12 引田発−都志着「淡路島」 高田屋嘉兵衛記念館休館中
11/13 都志発―木場ヨットハーバー「姫路」着
11/14 姫路城 見学 カミさん帰る
11/15 木場発−牛窓ヨットハーバー着
11/16 牛窓発−倉敷着
11/17 旧オ−ナ−と坂出で会う
11/18 整備
11/19 帰着
ほぼ1か月の期間でしたが、整備に時間をとられすぎました。 今までの記憶と違い、最近はこの台風明けのシ*−ズンは良い天候が続きクル−ズには最適な季節と言えます。 かっては11月は季節の変わり目で悪天候であったような気がしていました。

2019-11-23
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2019年11月20日
ウィンドサーフィンで初めて大西洋を横断した男 その3 〜セルジオとトムの冒険
イビサ物語〜ロスモリーノスの夕陽カフェにて 佐野
マイケルは、セルジオの伴走を終えた後、アゾレス諸島を経由して、自分のヨットでイビサに戻る予定だったから、病身?で気力が失せたセルジオの回復を待ち、ヨットのセールをたたみ、定点で大西洋を漂っているわけにはいかなかった。4月の観光シーズン開幕までに、なんとしてもイビサに帰らなければならなかった。
オランダ人の彼女によれば、セルジオがボードに乗ったのは初めと終わり、途中で天気の良い時だけよ…ということになるのだ。お人好しのマイケルはセルジオの口車にマンマと乗せられたことのようだ。
日曜版新聞“サンデー・タイムズ”が主催した第1回目の単独ノンストップ世界一周ヨットレース(The Sunday Times Golden Globe Race;1968-1969)、当時としては斬新なトリマラン(船体の両側にフロートを付けたヨット)で出場したドナルド・クローハースト(Donald Crowhurst)が、アルゼンチンの湾に船をつけ、いかにも世界一周しているかのようにハム無線で交信し、他のヨットがケープホーンを回り大西洋を北上しイギリスに向かい始めた頃を見計らって、ドナルドがセーリングを開始した事件があった。
誰も観ている人がいない冒険、競技は、冒険を行なう者の厳しい自己規制が求められる。アラン・ボンバール(Alain Bombard)がゴムボートで、全く外からの助けなしに大西洋を横断したように、すべて独自で、外界から切り離して行うのでなければこのような冒険の意味はない。

カリブ海の英連邦王国の島、Saint Lucia(セントルシア)

オランダ王国の構成国、Aruba(アルバ)
マイケルはカリブの島、セントルシアでセルジオを降ろし、すぐにアンティグアに向かい、そこのマリーナにヨットを預け、飛行機でイギリス経由、イビサに戻って来たのだった。
その後、セルジオがどこで何をしているのかは知らない。キュラソー、アルバ(旧オランダ領のカリブの島)で、ウィンドサーフィンで大西洋を渡った男を売りにして、観光客相手のウィンドサーフィン・インストラクターをやっているとも耳にした。
後年、私が服部と中古のヨットを買い大西洋を横断した時、マイケルは親身になって、どこでどのような食料を仕入れるべきか、大西洋の向こう側では、どこの島の港が入りやすく、手続きも簡単であるか、などなど事細かく教えてくれた。
《著者注:その後、ウィンドサーフィンで大西洋を渡った人が続出した。1993年にはTrans-Atlantic Windsurfing Race (TAWR).が発足し、伴走の船で寝、食べ、休息することが認められるようになった。どうにも、私のセルジオに対する評価は厳し過ぎたきらいがある。だが、常にサポートのヘリコプターが頭上を舞い、救援物資の投下を受けながらの極点旅行のような冒険に意味がないように思えるのと同じように、いつも伴走の船で寝て、食べて大洋を渡ることを、ウィンドサーフィンで大西洋を渡ったと呼べるのかどうか、私は認めたくない。》
十数年後、プエルトリコのマリーナでヨット暮らしをしていた時、大きなピンポンボールに奇妙なセールを揚げた浮遊物が私のヨットに横付けしてきた。

大西洋単独横断最小ヨット“BEATLES”とトム
半球型のドームを開けて、ガリガリに痩せた男が這い出てきて、大西洋を90何日かけて渡ってきたと言うのだ。私たちの重く、遅いクルーザーで23日かかった距離をだ。彼はビートルズと同じリバプールの出身で、ヨットとも呼べない浮遊物も名付けて『ビートルズ』、これぞ本物の海のカブトムシようだった。
その当時、ギネスブックものの“大西洋を渡った一番小さな船”だったが、出迎えの人影すらなかった。数日後、プエルトリコの英字新聞に小さな記事が載っただけだった。
彼、トム・マックニールは、背筋を伸ばして寝ることもできない長さの船でタダひたすら漂うように大西洋を渡ってきたのだ。水は当時出始めていた手動ポンプ式のリバースオスモシス(Reverse Osmosis;RO)浄水器で海水を純水にし、食料はフリーズドドライ、後は釣った魚……。一体、人間はどこまで狭い空間と厳しい条件に耐えられるかの人体実験に挑戦しているようなものだ。
私たちは彼をヨットに呼び、たしか簡単なスパゲッティーをご馳走し、サンミゲール(ビール)とワインで到着を祝った。その間、トムは何かに憑りつかれたように喋りまくり、何を飲み、何を食べているのかさえ分からない様子だった。
それにしても、これほど聞き取りにくい英語、これが一体英語なのかと思うほど、彼が息せき切って話すことが分からないのには閉口した。そして、それが10時間以上続いたのだった。やっと彼はイギリスの家族に無事到着の旨を電話することを思い出してくれたのだった。
電話を借りるためマリーナオフィスに同行したが、当然オフィスは閉まっており、マリーナから歩いて15分ほどの距離にあるリゾート地区、イスラ・ヴェルデの大きなホテルに連れて行き、そこからやっと電話したのだった。
トム・マックニールの船は、もしアレを船と呼ぶなら、何度もの試行錯誤の上、自分でデザインし、自分で作ったとても頑丈な浮遊体だった。キールもそれなりに重く深く、転覆、一回転しても起き上がるようにできていた。実際、トムは何度も回転したそうで、まるで洗濯機のドラムの中にいるみたいだったと言っていた。
セルジオの派手な売名行為、スタンドプレイとトムの冒険は比較するのもバカらしい程の差がある。私は偶然から“ウィンドサーフィンで大西洋を渡った初めて?の男”セルジオの出発と“最小?のヨットで大西洋を渡ってきた”トムの到着に居合わせただけだ。
トムの冒険は、船を作ることに始まり、艤装(装備などの取付)、何から何まで彼自身が作り上げたものだ。こんな小さなヨットとも呼べないモノで大西洋を渡ることにどんな意味があるのだ、何のために…何の価値があるのだ、と問うのはチャレンジ精神や冒険心を持たない者の言うことだ。
トムの航跡はすべて彼独自のものだ。トムが漂った大西洋の1マイル、1マイルは彼の足跡そのものだ。私はそこに貴重なモノを見るのだ。人間は(と大きく出ましたよ)、自然と、そして周囲の他の人間と係わり合いながら自己を築き、歩んでいくものだ。その時に独自性、最低限の自足が基本になるのではなかと思う。独立していない人間には、本当の意味での自由がない理屈だ。さらに、チト理屈っぽくなってしまうのだが、“自由とは自分自身であろうとする意思だ”と思うのだ。
イビサ物語から離れたエッセーになってしまったが、こんなこともイビサに棲んで多くの人を見て、知り合って学んだことだ…と今にして思う。
2019-11-20
1−3回は「のらり」より佐野の記事の転載です。
マイケルは、セルジオの伴走を終えた後、アゾレス諸島を経由して、自分のヨットでイビサに戻る予定だったから、病身?で気力が失せたセルジオの回復を待ち、ヨットのセールをたたみ、定点で大西洋を漂っているわけにはいかなかった。4月の観光シーズン開幕までに、なんとしてもイビサに帰らなければならなかった。
オランダ人の彼女によれば、セルジオがボードに乗ったのは初めと終わり、途中で天気の良い時だけよ…ということになるのだ。お人好しのマイケルはセルジオの口車にマンマと乗せられたことのようだ。
日曜版新聞“サンデー・タイムズ”が主催した第1回目の単独ノンストップ世界一周ヨットレース(The Sunday Times Golden Globe Race;1968-1969)、当時としては斬新なトリマラン(船体の両側にフロートを付けたヨット)で出場したドナルド・クローハースト(Donald Crowhurst)が、アルゼンチンの湾に船をつけ、いかにも世界一周しているかのようにハム無線で交信し、他のヨットがケープホーンを回り大西洋を北上しイギリスに向かい始めた頃を見計らって、ドナルドがセーリングを開始した事件があった。
誰も観ている人がいない冒険、競技は、冒険を行なう者の厳しい自己規制が求められる。アラン・ボンバール(Alain Bombard)がゴムボートで、全く外からの助けなしに大西洋を横断したように、すべて独自で、外界から切り離して行うのでなければこのような冒険の意味はない。

カリブ海の英連邦王国の島、Saint Lucia(セントルシア)

オランダ王国の構成国、Aruba(アルバ)
マイケルはカリブの島、セントルシアでセルジオを降ろし、すぐにアンティグアに向かい、そこのマリーナにヨットを預け、飛行機でイギリス経由、イビサに戻って来たのだった。
その後、セルジオがどこで何をしているのかは知らない。キュラソー、アルバ(旧オランダ領のカリブの島)で、ウィンドサーフィンで大西洋を渡った男を売りにして、観光客相手のウィンドサーフィン・インストラクターをやっているとも耳にした。
後年、私が服部と中古のヨットを買い大西洋を横断した時、マイケルは親身になって、どこでどのような食料を仕入れるべきか、大西洋の向こう側では、どこの島の港が入りやすく、手続きも簡単であるか、などなど事細かく教えてくれた。
《著者注:その後、ウィンドサーフィンで大西洋を渡った人が続出した。1993年にはTrans-Atlantic Windsurfing Race (TAWR).が発足し、伴走の船で寝、食べ、休息することが認められるようになった。どうにも、私のセルジオに対する評価は厳し過ぎたきらいがある。だが、常にサポートのヘリコプターが頭上を舞い、救援物資の投下を受けながらの極点旅行のような冒険に意味がないように思えるのと同じように、いつも伴走の船で寝て、食べて大洋を渡ることを、ウィンドサーフィンで大西洋を渡ったと呼べるのかどうか、私は認めたくない。》
十数年後、プエルトリコのマリーナでヨット暮らしをしていた時、大きなピンポンボールに奇妙なセールを揚げた浮遊物が私のヨットに横付けしてきた。

大西洋単独横断最小ヨット“BEATLES”とトム
半球型のドームを開けて、ガリガリに痩せた男が這い出てきて、大西洋を90何日かけて渡ってきたと言うのだ。私たちの重く、遅いクルーザーで23日かかった距離をだ。彼はビートルズと同じリバプールの出身で、ヨットとも呼べない浮遊物も名付けて『ビートルズ』、これぞ本物の海のカブトムシようだった。
その当時、ギネスブックものの“大西洋を渡った一番小さな船”だったが、出迎えの人影すらなかった。数日後、プエルトリコの英字新聞に小さな記事が載っただけだった。
彼、トム・マックニールは、背筋を伸ばして寝ることもできない長さの船でタダひたすら漂うように大西洋を渡ってきたのだ。水は当時出始めていた手動ポンプ式のリバースオスモシス(Reverse Osmosis;RO)浄水器で海水を純水にし、食料はフリーズドドライ、後は釣った魚……。一体、人間はどこまで狭い空間と厳しい条件に耐えられるかの人体実験に挑戦しているようなものだ。
私たちは彼をヨットに呼び、たしか簡単なスパゲッティーをご馳走し、サンミゲール(ビール)とワインで到着を祝った。その間、トムは何かに憑りつかれたように喋りまくり、何を飲み、何を食べているのかさえ分からない様子だった。
それにしても、これほど聞き取りにくい英語、これが一体英語なのかと思うほど、彼が息せき切って話すことが分からないのには閉口した。そして、それが10時間以上続いたのだった。やっと彼はイギリスの家族に無事到着の旨を電話することを思い出してくれたのだった。
電話を借りるためマリーナオフィスに同行したが、当然オフィスは閉まっており、マリーナから歩いて15分ほどの距離にあるリゾート地区、イスラ・ヴェルデの大きなホテルに連れて行き、そこからやっと電話したのだった。
トム・マックニールの船は、もしアレを船と呼ぶなら、何度もの試行錯誤の上、自分でデザインし、自分で作ったとても頑丈な浮遊体だった。キールもそれなりに重く深く、転覆、一回転しても起き上がるようにできていた。実際、トムは何度も回転したそうで、まるで洗濯機のドラムの中にいるみたいだったと言っていた。
セルジオの派手な売名行為、スタンドプレイとトムの冒険は比較するのもバカらしい程の差がある。私は偶然から“ウィンドサーフィンで大西洋を渡った初めて?の男”セルジオの出発と“最小?のヨットで大西洋を渡ってきた”トムの到着に居合わせただけだ。
トムの冒険は、船を作ることに始まり、艤装(装備などの取付)、何から何まで彼自身が作り上げたものだ。こんな小さなヨットとも呼べないモノで大西洋を渡ることにどんな意味があるのだ、何のために…何の価値があるのだ、と問うのはチャレンジ精神や冒険心を持たない者の言うことだ。
トムの航跡はすべて彼独自のものだ。トムが漂った大西洋の1マイル、1マイルは彼の足跡そのものだ。私はそこに貴重なモノを見るのだ。人間は(と大きく出ましたよ)、自然と、そして周囲の他の人間と係わり合いながら自己を築き、歩んでいくものだ。その時に独自性、最低限の自足が基本になるのではなかと思う。独立していない人間には、本当の意味での自由がない理屈だ。さらに、チト理屈っぽくなってしまうのだが、“自由とは自分自身であろうとする意思だ”と思うのだ。
イビサ物語から離れたエッセーになってしまったが、こんなこともイビサに棲んで多くの人を見て、知り合って学んだことだ…と今にして思う。
2019-11-20
1−3回は「のらり」より佐野の記事の転載です。
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ウィンドサーフィンで初めて大西洋を横断した男 その2
イビサ物語〜ロスモリーノスの夕陽カフェにて 佐野
ウィンドサーファーのセルジオ一行と言うべきか、スポンサーの一人になっている『エル・モノ・デスヌード』のオーナー、マイケルのグループと呼んだ方が当たっているような気がするのだが、彼らは数種類のボードやハーネス、リグをテストするため、頻繁にロスモリーノスのビーチを訪れるようになった。
さすがに、私は彼らと一緒に初心者用のボードに小さいセールで海に乗り出すことはしなかったが、野次馬の一人として、セルジオの長く大きな浮力を持たせたラウンドビルジ(底が半円形に丸くなっている)のボードをテストするのを眺め、薄手のウェットスーツや上半身だけ被うドライスーツを、ホウ、そんなものがあるのかと感心し、呆れて見ていた。
セルジオはゴロタ石の海岸など全く問題にせず、クルブシほどの深さから、スイッとボードを押し出し、そのままマストを立て、風を上手くセールに孕ませ、アレヨという間に沖に出るのだった。セルジオがウィンドサーフィンを操るサマはアクロバットのようだった。
まるでボードにジェットエンジンを積んでいるかのようにボードのテイルフィンだけが海面に触れ、飛ぶように走らせるのだ。タックやジャイブもヒラリ、ヒラリと軽々と新体操の選手が棒の先に付いた長いリボンを操るように舞い、即座にスピードに乗るのだった。私はただただアッケにとられて観ていた。
その時、私自身、後年ヨットで大西洋を渡ることになるとは想像もしていなかったので、セルジオとサポート船としてヨットで伴走するマイケルに、そんなことができるんだと、ひたすら感服した。

へレス産の最高級ブランデー、Sanchez Romate
『カサ・デ・バンブー』で彼らはサンミゲル・ビール(San Miguel)に始まり、赤ワインはマルケス・デ・ムリェタ(Marqués de Murrieta)に突き出しのチーズ、そしてコーヒーにコニャック、ブランデーはカルロス・プリメーロ(CarlosT)かサンチェス・ロマテ(Sanchez Romate)で、いつも高級ワインとコニャックを開けた。今気づいたことだが、支払いはいつもマイケルがしていた。
セルジオが出発する前の夜には、盛大な壮行会がディスコ『パチャ(Pacha)』でやるからとマイケルに誘われた。私は店を閉めるわけにもいかず、パーティーには行けなかった。翌日の新聞“ディアリオ・デ・イビサ(DIARIO DE IBIZA)”が写真入りで報じたのを観ただけだった。
翌朝、セルジオが出港というのだろうか、イビサを離れる時には、見送りに行った。丁度その時、日本から大学時代の朋友、服部が来ていたので、一緒に出発前の記念撮影に収まったのだった。

左端、ピンクのTシャツがマイケル、ブームに跨っているのがマイケルのガールフレンド、
ウエットスーツ姿がセルジオ
見送りは至って簡素だった。“ディアリオ・デ・イビサ”の記者、カメラマンは昨夜のバカ騒ぎパーティーで充分だと思ったのだろうか、来ていなかった。それどころか、スポンサーのウィンドサーフィン・メーカーもディスコの『パチャ』の関係者もいなかったと思う。
マイケルのヨットが機送で岸壁をゆっくりと離れ、セルジオもウィンドサーフィンの鮮やかなイロドリ、まるで広告塔のようにスポンサーの名前を貼り付けてあるセールを見せながら港を一周し、ヨットの周りをヒラリヒラリと舞いながら、遠ざかって行った。
冷静に考えれば、大西洋を横断するのにイビサを基点にするのはオカシイことに気づいてもよいはずだった。出発は当然、ジブラルタル、もしくはカナリー諸島のどこかになるべきだ。それにセルジオがいくらウィンドサーフィンのエキスパートだったにしろ、水、食料をサーフボードに積むことは不可能だし、それに睡眠はどう取るのだ? 私には冒険の基本、海の常識すら思い浮かばなかったのだ…。
第一に、ウィンドサーフィンとヨットではスピードが違いすぎることさえ気が付かなかった。なんとなく、同じ風で走るのだからセルジオがウィンドサーフィンを滑らせるすぐ脇をマイケルがヨットを走らせる光景を想像していたのだった。これは、ドーバー海峡を泳いで渡る人に合わせた遅いスピードで小さなパワーボートが伴走するのとは全く逆で、ウィンドサーフィンの方は容易に15ノット、20ノットのスピードでセーリングできるが、マイケルのクルーザーは順風満帆でも7、8ノット、最速でも10ノットを超すことはない。ウィンドサーファーは文字通り、アッと言う間に伴走ヨットの視界から消えることになるのだ。
翌年の春、セマナ・サンタ(復活祭;イースター)の前に、イビサに戻り、シーズン幕開けの準備をしている時、マイケルと出会った。セルジオのことを訊ねると、「アイツのことは話したくない…」と言うだけだった。
どうにも名前を思い出せないのだが、見送りの写真に写っている金髪で水色のTシャツを着ているオランダ女性とピーターのテニスコートのオープンパーティーで会い、その後何度かテニスの相手になってくれた。その時、彼女からセルジオのことを訊いたのだ。
彼らはアリカンテ、マルベーヤ、ジブラルタルに寄航し、カナリア諸島のテネリッフェから大西洋横断に乗り出した。契約とも呼べない約束では、食料、水はマイケルのヨットが供給し、夕暮れとともにセルジオはヨットに乗り移りそこで寝る、ヨットはセールを降ろし、定点に留まり(海流と貿易風にかなりの速さで流されるから、こんなこと、定点に止まることなど不可能なのだが…)、翌朝、日の出とともにセルジオはウィンドサーフィンを続ける……ということになっていたそうだ。
果たしてこんなヤリカタで大西洋を渡ることに何の意味があるのか分からないしろ、そんな風に大洋を渡る約束だった。ところが、セルジオは体調が悪い、胃腸の調子が良くない、筋肉がつる、風邪気味だと、何のかんのと言い出し、ヨットを降りてウィンドサーフィン・ボードに乗り移らなくなってしまったと言うのだった。

カナリア諸島の島、テネリッフェ
2019-11-20
posted by はやめ at 17:48| Comment(0)
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