2017年07月31日

三瓶 海の駅


 三瓶・愛媛県西予市の海の駅を訪ねました。 海の駅といってもHPではゲストバ−スの説明はありません。
三瓶支所に問い合わせてヨットをつけることになりました。ヨットを荷揚げ用岸壁に着岸しましたが、ほかにポンツ−ンで2隻着けるところがあります。こちらのほうがヨットにはベストです。

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 三瓶ゲストバ−ス 左側と後ろ側の2隻

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 三瓶荷揚げ用岸壁に着岸した

 佐田岬の影に隠れるようにして切れ込んだ奥にある波静かな町が三瓶・西予市です。三つの瓶が流れ着いた伝説からその名が由来するという。

 地元のヨットマンに聞いたことによれば、こんな静けき泊地でも台風の南西風が強いときは他へ移すということです。鉄道の駅もなく不便なところですが、明治よりの文楽の歴史があり、専用の上演用会館をもつ。

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 朝立会館 文楽を演じる

 また、海の駅の対応で初めての経験をしました。停泊の無料や10円程度で済むところは他にもあるのですが、10円の停泊料で82円もかけて我が家に停泊許可つきの領収書が送られてきました。お役所とはいえキッチリしなければならないのでしょうが、やりすぎの気もします。でも大変ヨットにはありがたいことです。 地方の事務所へヨットを前もって停泊したいと訪ねると断られることが多いです。岸壁は閑古鳥がないているにもかかわらず。お役人にとっては得にもならず、余分なことをしたくないからなのでしょう。


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 西予市 港湾施設使用料領収書

  2017-7-31



posted by はやめ at 16:25| Comment(0) | 日記

2017年07月30日

三机


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 三机の4−5隻着岸できる岸壁

 三机は先代の「速魚」から40数年ぶりに停泊した港です。その時は冬の季節風の強い時期で、その強風で艇が動揺するので岸壁から離して錨泊、エンジンを前進にし、アンカ−ロ−プの負担を少なくして耐えた記憶が今でも憶えています。

 今度訪ねてみてそこの場所がみつからない、岸壁に変更があったのでしょう。空いている岸壁につけて、近くの漁協に連絡に行くと、奥の岸壁への移動を指示される。そこからが大変でした。シフト作業中にエンジンが黒煙を出す、プロペラに何か絡まった模様。エンジンをスロ−にして移動して指示された岸壁に無事着岸。 それを取り除くために、40年ぶりに足ひれとマスクをつけて潜ることになる。包装用の大きなビニ−ル資材がからんでいる。息を切らしながらであったが、それを取り除くことができた。前回の潜りは、オホ−ツクの夏とはいえ冷たい肌感覚が思いだされた。それに比べれば愛媛の海は暖かい。


 三机で出会った2人のおばあちゃん(爺がこういうのもなんですが)

 1. 戦時の思い出を語るご婦人

 この三机は特殊潜航艇の訓練基地があったところで、その訓練要員は真珠湾・シドニ−湾・マダガスカル攻撃に加わった。真珠湾攻撃の9軍神の碑が須賀公園にある。この地区は戦前は立ち入り禁止地区であった。終戦近くになると米軍にもこの基地が知られて空襲で銃撃されたとのこと。この湾での上空で空中戦も見られたと語られました。

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 9軍神の碑

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 「旅館まつもと」 岸壁の前の旅館で4−5人ならオフロの予約ができる。近くの岩宮旅館は9軍神が泊まった宿で記念品があるという。

2. ヨット応援隊のご婦人

 ここに立ち寄ったヨットにいろいろな支援をしてくれるご婦人がいます。いつのまにかヨットを見つけて訪ねてくれました。初対面にもかかわらず夕食をヨットまで運んでくれる。コンビニ弁当ばかりの飢えたヨットマンにはありがたい家庭料理です。”福ちゃん”ごちそそうさまでした。

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 伊方原発の隣だが山に架る陸橋が大きな入港目標となる


   2017-7-30



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2017年07月29日

中津城


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 中津城 (コンクリ−ト製模擬天守 萩城天守がモデルという)

 ヨットで中津を訪ねるプランでしたが、あいにく上関・山口県を出港したとたんに濃霧におおわれて、港に引き返すハメになりました。霧が晴れて9時ごろに再出港する。入港時間の関係で行き先を変更して大分県・ムサシのマリ−ナへ(大分空港近く)行く。翌日レンタカ−で中津に行ってきました。

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 中津川(山国川)を天守から望む

 中津城は黒田 官兵衛(如水)が築城した。山国川の河口にある平城であるが堀に海水を引き込み海への交通に配慮した城である。大阪へは早舟で3日で行けたという。

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 城割図

 その後細川氏がこの地を領したことにより改築されて、石垣に黒田と細川の跡が残る。

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石垣にある黒田と細川の継ぎ目 左が黒田で右が細川

 細川氏の次は幕府譜代の小笠原氏から奥平氏になり幕末まで続く。

 黒田如水の息子長政は如水が熊本の一揆成敗で留守の間に敵対していた城井氏をだまし討ちした。その家臣も待機していたお寺で斬殺された。その後寺の壁を塗り変えても赤くにじむので、赤壁にしてしまったという。

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 赤壁合元寺

 家康と握手を重ねたという長政に、その時の左手が何をしていたのかと問い詰めた如水の逸話があるという。
秀吉も如水にわずか12万石しか与えなかった。石田三成にも20万石の両雄であった、両者ともその2−3倍の領地を秀吉が与えていたのなら歴史も変わり、豊臣家は残ったのであろうにと思います。 息子の長政は関ケ原の働きで筑前52万石になりこの地を去った。
 
 奥平氏になり蘭学が盛んになり解体新書の翻訳なり、福沢諭吉が輩出した。行かなかったが福沢記念館もあります。

    2017-7-29




posted by はやめ at 20:37| Comment(0) | 日記